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小林秀雄「ゴッホ」2

自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、寧ろ全く逆な事を行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。 (p97,98) 前回の続きになるが、ここでは「自分自身を守る人間」と「人々の間に自己を放とうとする人間」について考える。自分を守るとは、外部からの体裁を気にしたり、弱みを見せないようにすることだろう。反対に、自己を放つとは、体裁を気にせず、弱みや醜い部分をありのままにさらけ出すということではないか。 そしてこの「優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。」 という一文。始めこの文を読んだ時は、今ひとつ意味が分からないでいた。どうして自分を守り、自分流に語ることよりも、自己を放つことの方が個性的なのか。自己を放つということは、個性を失うということではないのかと。しかし、ここで書きながら考えているうちに、自分の読み込みがいかに浅いものかと逆に気付かされた。 こんなの当たり前の話だ。自分の殻に閉じこもって体裁を気にしている者からは、それだけのあざとさが見て取れる。無理に個性的であることを装うのだから、そんなの簡単に見透かされてしまう。要は中途半端なのだ。 それにひきかえ、自己を放つ者は、人からどう見られるのかは気にしない。そんな些細なことに気を煩わしている余裕もない。ただひたすらに、自分をまな板の上に乗せて、冷徹な目でそれを見つめるのだ。そんな、誇張も弁解もない、ありのままの自己を語られたら、それが個性的でないわけがない。それがその告白者のとらえた紛れもない自分なのだから。もっとも、当人はそれが個性的かどうかなどには一向に興味がないだろうが。 ここで、ページが前後するが、ドイツの有名な哲学者で現象学的精神病理学の専門家でもある、カール・ヤスパース(Karl Jaspers)のゴッホについての分析を取り上げている箇所があり、これまでの話と関連があるので、一旦話をそちらに転ずることにする。 --- 病気は、勿論、ゴッホにとって、仕事の上での大きな障碍だったに違いないが、現に存する彼の作品は、病気という条件がなければ、恐らく現れなかったであろうと考えざるを得ない様な、或る特異

小林秀雄「ゴッホ」

また何の脈略もなく新しい事を始める。ゴッホについてのまとめも、書き始めておきながら放置状態。まだ書くということが自分の中で慣れていないのだろう、こうしてパソコンの前で何かについて書き始めるまでに相当の時間がかかるし、書けないでいることがまた自分の気力を奪う。この繰り返しから逃れるためにも、取り敢えずその時書きたいと思ったことに取り掛かろう。まずは習慣化させること、自分に告白させる場を与えることを考えよう。 ということで、今日は小林秀雄の「人生について」という評論集から「ゴッホ」を取り上げる。取り上げると言っても単純に引用とそれに対する僕の感想なので、読者には相変わらず不親切なものになるだろうことを断っておきます。 以下、引用元 「人生について」小林秀雄(中央文庫)1978年 「ゴッホ」p94〜p113 --- 殆どすべての手紙は、ただ一人の心の友であった弟に宛てて、彼の言葉を借りれば「機関車の様に休みなく描く」仕事の合間に、綿々と記されたのであるが、恐らく、カンヴァスの乾くのを待つ間、机の上の用箋に向ったゴッホのペンは、やはり機関車の様に動き出しただろうと思われる。(p94,95) いきなりだが、まさにこれが僕にとって理想の状態だ。常に自分と向き合い、自分の内側を見つめてそこから自分の欠片を取り出す作業。もちろん僕とゴッホの制作スタイルが違うから、彼と全く同じように作業は出来ないだろう。(例えば、僕は深夜に絵を描くことがほとんどで、そうすると、寝ている間に絵は乾いてしまう、しかも彼と違いアクリル絵の具だから乾きも早い。そうなると、乾くのを待っている間、書くということは出来ない。まあ、これは些細な違いなのだけれど。) それでも、絵を描くこと、言葉を書くこと、この二つの両立を意識している僕としては、それをどちらも「機関車の様に休みなく」できる彼に憧れてしまう。それが自分の満足できる具合にできるようになれば、もっともっと自分とこの世界のことがよく見えるようになるのだろうし、何よりも生の充実を得られる。命の炎に薪をくべて自分を「機関車の様」に動かしたい。今はそこに到達するために、幾度となく気力を失い自己嫌悪に陥りながらも、必死にもがくしかないのだろう。 --- 手紙は言う。「自然が実に美しい近頃、時々、僕は恐ろしい様な透視力に見舞わ