小林秀雄「ゴッホ」

また何の脈略もなく新しい事を始める。ゴッホについてのまとめも、書き始めておきながら放置状態。まだ書くということが自分の中で慣れていないのだろう、こうしてパソコンの前で何かについて書き始めるまでに相当の時間がかかるし、書けないでいることがまた自分の気力を奪う。この繰り返しから逃れるためにも、取り敢えずその時書きたいと思ったことに取り掛かろう。まずは習慣化させること、自分に告白させる場を与えることを考えよう。


ということで、今日は小林秀雄の「人生について」という評論集から「ゴッホ」を取り上げる。取り上げると言っても単純に引用とそれに対する僕の感想なので、読者には相変わらず不親切なものになるだろうことを断っておきます。

以下、引用元
「人生について」小林秀雄(中央文庫)1978年
「ゴッホ」p94〜p113

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殆どすべての手紙は、ただ一人の心の友であった弟に宛てて、彼の言葉を借りれば「機関車の様に休みなく描く」仕事の合間に、綿々と記されたのであるが、恐らく、カンヴァスの乾くのを待つ間、机の上の用箋に向ったゴッホのペンは、やはり機関車の様に動き出しただろうと思われる。(p94,95)

いきなりだが、まさにこれが僕にとって理想の状態だ。常に自分と向き合い、自分の内側を見つめてそこから自分の欠片を取り出す作業。もちろん僕とゴッホの制作スタイルが違うから、彼と全く同じように作業は出来ないだろう。(例えば、僕は深夜に絵を描くことがほとんどで、そうすると、寝ている間に絵は乾いてしまう、しかも彼と違いアクリル絵の具だから乾きも早い。そうなると、乾くのを待っている間、書くということは出来ない。まあ、これは些細な違いなのだけれど。)

それでも、絵を描くこと、言葉を書くこと、この二つの両立を意識している僕としては、それをどちらも「機関車の様に休みなく」できる彼に憧れてしまう。それが自分の満足できる具合にできるようになれば、もっともっと自分とこの世界のことがよく見えるようになるのだろうし、何よりも生の充実を得られる。命の炎に薪をくべて自分を「機関車の様」に動かしたい。今はそこに到達するために、幾度となく気力を失い自己嫌悪に陥りながらも、必死にもがくしかないのだろう。

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手紙は言う。「自然が実に美しい近頃、時々、僕は恐ろしい様な透視力に見舞われる。僕はもう自分を意識しない。絵は、まるで夢の中にいる様な具合に、僕の処へやって来る」。彼は忘我のうちに、何かに脅迫される様に、修正も補筆も不可能な絵を、非常な速度で描いたのだが、手紙の文体は、同じ人間のやり方を示している。絵にあらわれた同じ天才の刻印が、手紙にも明らかに現れている。彼の書簡集を読む者は、彼が、手紙を書きながら、「恐ろしい様な透視力に見舞われている」のを感ずる。忘我のうちになされた告白、私は敢えてそんな言葉が使いたくなる。そういう告白だけが真実なものだと言いたくなる。(p95)


小林秀雄の文章は、どれを取っても僕にはまだまだ難しい。でも、そこには大切なことが書かれている、というのはビンビンと伝わってくる。実際にそうなのだろうし、だから、軽く読み流すことができずに一行一行、立ち止まって考えることになる。

ここでの「恐ろしい様な透視力」とは一体どういうものなのだろうか。

言葉通りに解釈すると、「透視」とは対象を見た時に、その向こう側まで見えることだ。そこから考えると、彼は美しい自然を見ているうちに、肉眼に映る単純な姿形とは別の、対象の内側に潜む何かが見えてくる、ということを言っているのではないだろうか。それがどうして見えるのかは、彼にも分からないことなので、「恐ろしい様な」ことだろうし、また、その瞬間は突然やって来るので「見舞われる」と言うのだろう。

と、ここまで書いておいて、次の文に目を向けると、「僕はもう自分を意識しない」という言葉が出てきて、小林はそれに「忘我」という言葉で呼応させている。となれば、この「透視力」とは一種の恍惚状態のことだと考えて差し支えないだろう。自分を意識するという檻から解き放たれて、宇宙と一体になる感覚、とでも言ったらいいだろうか。これが言い過ぎでなければ、彼は普遍に辿り着いたのであり、故に小林は「そういう告白だけが真実なものだと言いたく」なったのだろう。

この僕の解釈が正しければ、いよいよもってゴッホは僕にとって理想の体現者となる。神格化して崇拝する気はないけれど、単純に憧れを覚えるし、どうやって彼はそこまで辿り着くに至ったのか、彼に対する興味は尽きない。


そしてこの次から始まる小林の文章は、僕にとっても非常に難しい問題を提起している。

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何と沢山な告白好きが、気楽に自分を発見し、自分を軽信し、自分自身と戯れる事しか出来ないでいるかを考えてみればよい。正直に自己を語るのが難しいのではない。自己という正体をつきつめるのが、限りなく難しいのである。(p95)

狂人の告白を誰も相手にはしないが、普通人の告白でも、先ず退屈極まるものであって、面白がっているのは告白する当人だけであるのが、普通である。ひたすら自分を自分流に語る閉された世界に、他人を引き入れようとする点で、普通人の告白も狂人の告白と、さほど違ったものではない。自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。(p97)

僕は自問する。僕も小林の指摘する「沢山な告白好き」の中の一人なのではないだろうかと。気楽に自分を発見し過ぎるきらいはないか。僕は自分を軽々しく信じ込んではいないか。僕は自分自身と面白半分で向き合ってはいないか。

確かに僕もこうして告白する(心の中に思っていることを打ち明ける)者であるし、その告白の内容にしたって、ゴッホのように人の心を引きつけるものかは分からない。それでも、これは弁解でも何でもなく、僕は自分自身と真剣に向き合っているつもりだし、それは単に興味本位や趣味としてではなく、生(魂と言ってもいい)からの要請が基本にあるのだ。僕は自分をできるだけ突き放して見るように努める。なぜそう感じるのか、自分の弱さも徹底的にあぶり出す。僕は自分自身の全体像をとらえたいと思っているので、弱い部分には目をつぶるという考えはありえず、むしろ目を見開いて積極的に見つめる。自分が正しいと思った考えにも疑問を投げかける余地は残すようにしているし、そうなると簡単に信ずることなどできやしない。

とまあ、小林の指摘に対して、僕という人間を客観的に見た上での回答を試みたが、あとは読者が各自判断されたし。僕はここで、考えながら書き、また、書きながら考えているので、始めこの文章を読んだ時は自分も単なる「告白好き」の中の一人だったらどうしようかと身が引きしまる思いがしたし、今でも賢人、小林秀雄から見たら、大差ないと言われるかもしれない。しかし、少なくとも自分の中では、自分の、自身に対する姿勢を理解しているつもりなので、正直安心した部分もある。

それにしても、この本は僕が生まれる二年前、1978年に書かれた本なのだが、もし小林がfacebookやtwitterなどの、今の現状を見たらなんと思うだろうか。彼の指摘は現代でもそのまま当てはまると思うので、そこは非常に興味深い。

※このブログは2010年から開始しており、特に最初は単純な日記も多かったし、言葉が今よりも軽いところも多々あったということを認めるものです。自分の言葉で真剣に語ろうとするのは、基本的にウェブサイトのDIGのページにて行っていました。


続く


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