2015年9月7日月曜日

小林秀雄「ゴッホ」2

自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、寧ろ全く逆な事を行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。(p97,98)

前回の続きになるが、ここでは「自分自身を守る人間」と「人々の間に自己を放とうとする人間」について考える。自分を守るとは、外部からの体裁を気にしたり、弱みを見せないようにすることだろう。反対に、自己を放つとは、体裁を気にせず、弱みや醜い部分をありのままにさらけ出すということではないか。

そしてこの「優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。」 という一文。始めこの文を読んだ時は、今ひとつ意味が分からないでいた。どうして自分を守り、自分流に語ることよりも、自己を放つことの方が個性的なのか。自己を放つということは、個性を失うということではないのかと。しかし、ここで書きながら考えているうちに、自分の読み込みがいかに浅いものかと逆に気付かされた。

こんなの当たり前の話だ。自分の殻に閉じこもって体裁を気にしている者からは、それだけのあざとさが見て取れる。無理に個性的であることを装うのだから、そんなの簡単に見透かされてしまう。要は中途半端なのだ。

それにひきかえ、自己を放つ者は、人からどう見られるのかは気にしない。そんな些細なことに気を煩わしている余裕もない。ただひたすらに、自分をまな板の上に乗せて、冷徹な目でそれを見つめるのだ。そんな、誇張も弁解もない、ありのままの自己を語られたら、それが個性的でないわけがない。それがその告白者のとらえた紛れもない自分なのだから。もっとも、当人はそれが個性的かどうかなどには一向に興味がないだろうが。


ここで、ページが前後するが、ドイツの有名な哲学者で現象学的精神病理学の専門家でもある、カール・ヤスパース(Karl Jaspers)のゴッホについての分析を取り上げている箇所があり、これまでの話と関連があるので、一旦話をそちらに転ずることにする。

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病気は、勿論、ゴッホにとって、仕事の上での大きな障碍だったに違いないが、現に存する彼の作品は、病気という条件がなければ、恐らく現れなかったであろうと考えざるを得ない様な、或る特異な精神の形態を充分に示している、という考えである。誤解してならないのは、ヤスパースがここで言う精神とは、健康と病気との対立などを超えたものを指すので、病気という機縁によって、病気がなければ、恐らく隠れたままで止ったゴッホの人格構造の深部が、彼の自我の正体が、露呈されて来ると言うのである。ここでもう一つ誤解してはならないのは、ヤスパースは、こういう考えを、病気という事実と、病人の作品の意味とか価値とかいうものとの深い断絶を、はっきり意識した上で言っているという事である。

(中略)

ゴッホの精神分裂症という自然的過程の因果性は、それから発生したゴッホの作品の精神的世界の理解に関して、又、その意義や価値に関して、何事も語らない。これは、人間の生存に結びついた深い矛盾である。(p96)


僕なりに要約するとこうだ。

病気によって彼の奥底に眠っていた独特の精神が覚醒したのだろう。だがそれは、彼が発作が起きている最中に特別な力を得るということではない。なぜなら、発作に見舞われると作業が中断するのだから。そうではなく、病気という状態と向き合うことで(もしかすると病気自体が物理的に及ぼした作用というものがあるかもしれないが)、健常な状態では辿り着けない、自己の深淵に到達したのではないか。正常な精神においては無意識に作ってしまう壁があり、狂気によってそれを突破する。

ただ、病気はあくまでもその壁を通過するために必要な、いわゆる鍵のようなものであり、その先にある「自我の正体」は、病気とは何も関係のないものなのだとヤスパースは言っている。となれば、ゴッホの絵とは、「狂人が描いた作品」ではなく、「狂気という境地に達した人間が描いた作品」ととらえるべきなのではないか。

だが、これがどうして、小林の言うように、「人間の生存に結びついた深い矛盾」なのだろうか。

病気の因果関係を知ったところで、彼の作品を理解するための助けにはならない。これが矛盾なのだと。精神分裂症になった原因を探ることは、彼の生い立ちに触れることにつながるし、そうであれば、彼の精神は浮き彫りになってくるはずだ。

確かに、前述の通り、病気は彼の自我を目覚めさせたが、彼の自我そのものに影響を及ぼしていないという説には納得がいく。しかし、病気になるまでの過程とは、彼の人生そのものであり、その過程を通じて彼の自我(魂と言ってもいい)は形作られていったはずだろう。病気と自我は断絶していても、病気の因果性と自我は断絶していないと僕は考える。

病気 | 自我〜病気の因果性

僕の考えが不十分なのかもしれない。読み込みが足りないせいかもしれない。どちらにしてもすっきりしないが、しかし、今僕が考えられるのはここまでだ。


そして、この次に来るのが、前段の個性的云々の話につながってくる部分で、僕が紹介したかったところになる。

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彼の絵に現れた「特殊な或るもの」を体験しなければ駄目だとヤスパースは言う。彼の絵の与える「衝撃」を感得しなければ、駄目だと言う。そして、彼は、1912年のケルンの展覧会の印象を次の様に語る。「ゴッホの驚くべき傑作とともに陳列された全ヨーロッパの千篇一律な表現派の作品を見ながら、狂人たらんことを欲して余りに健全なこれらの多数者の中で、ゴッホだけが唯一人の高邁な、自分の意志に反しての狂人であるという感を抱いた」と。(p97)

「特殊な或るもの」と「衝撃」は同じものを指しているだろう。その「特殊な或る衝撃」とは何か。それは先に述べた「沢山の告白好き」「自分自身を守る人間」と、「他人を傾聴させる告白者」「人々の間に自己を放とうとする人間」の間を大きく分かつものであろう。ここでのヤスパースの言葉からは「狂人たらんことを欲して余りに健全なこれらの多数者」と「高邁な、自分の意志に反しての狂人」をそれぞれ対応させることができよう。

結局のところ、個性を求めて他と違うことを意識したり、何か新しいことが絶対的に素晴らしいことだと考えている間は、本当の(深淵にある)自己(魂)には近づけない。だって、彼らはその存在自体を感じていないのだから。これが言い過ぎであるなら、彼らにはそれを感じていても真剣に向き合っておらず、目先の名声などに心を惑わされているのだ。

それにひきかえ、後者は目先のあれやこれやには目もくれない。彼は自己を徹底的に客観視し、鋭く批評する。そうして、誰よりも厳しい観察者によって、裸の自己が炙りだされるのだから、それは純粋な特殊性を備えるのだろう。


僕自身、自分が個性的かどうかなどには興味がない。他と違うことを探すことも全く意味がないことだとは言わないが、そればかりに気を取られていたら自分を見失ってしまう。ああ、そうは言っても周りのことが全く気にならないかといえば、残念ながらそうはなっていない。周りは気になる、隣の芝が青く見えることも多々あるし、それを意識させない為に予防線を張っているくらいだ。周りに心を惑わされてしまう自分を毛嫌いしている。

だから、もう少し控えめに言おう。僕は少なくとも後者に憧れ、後者でありたいと歩を進める者である、と。

続く

参考文献:
「人生について」小林秀雄(中央文庫)1978年
「ゴッホ」p94〜p113


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