2015年8月27日木曜日

無題 Ohne Title

※今回からたまに、でも出来るだけ、ドイツ語でも自分の思いを言葉化していきたい。そのドイツ語はここに書かれている日本語以上に、文章として間違いだらけだと思う。しかし今は書くこと、それ自体を優先しているので、その点はご了承願いたい。

※Von heute versuche ich manche mal, wie möglich, das Tagebuch auf Deutsch zu schreiben. Ich würde mich derzeit auf das Schreiben konzentrieren mehr als die Grammatik. Deshalb könnte es hier sicher viele Fehler geben. Zuerst würde ich Ihnen darüber informieren.


今日もまた取り留めのないことを書いていくことになるのだろう。

Auch heute werde ich wieder dummes Geschwätz schreiben..

最近は再び少しずつドイツ語の勉強を進めている。とは言っても自分が望んでいるほどは捗っていない。文法、聞き取りを少しとドイツ人のおじいさんに協力してもらって、週一で朝食を食べたりしながらドイツ語で会話をしている。一日が過ぎていくのはなんとこう、あっという間なのだろう。こう思うことができるのは以前よりも活動的になっていることの裏返しであり、であればこれは喜ぶべきことなのだろう。

Zurzeit habe ich wieder angefangen, langsam Deutsch zu lernen. Jedoch geht es nicht so gut als ich wollte. Die Grammatik, die Nachschreibeübung und ab und zu unterhalte ich mich mit einem alten Herrn über die verschiedenen Themen auf Deutsch. Wie schnell vergeht einer Tag. Es heißt aber, dass ich momentan viel Motivation zu tun habe. Darauf (die Situationänderung) sollte ich mich mehr freuen.

しかし、今日久しぶりにお会いした方とドイツ語で話をしていて、それでも少しは上達していたと思っていた僕の自信は一瞬で吹っ飛んだ。それは相手がもちろんネイティブだから、早口だったり語彙の量が圧倒的に違うし、そこは比べるところではないのだとも分かっているけれど、分からない単語ばかりだし、またこちらからも話をうまくまとめてドイツ語で話すことができずに、文にして、というよりも単純に単語だけが口を突いて出て来てしまう。そういう自分のドイツ語の滅茶苦茶さ加減に幻滅し、どうにもやるせない。

Jedoch, mein Selbstbewusstsein ist in einem Augenblick (einfach sehr schnell) verloren, als ich heute mit einer Bekannte von mir auf Deutsch geredet habe (obwohl ich bisher daran dachte, dass mein Deutsch schon nicht so wenig verbessert ist). Natürlich ist es klar, dass die Sprache für mich nicht die Muttersprache ist. Ja, das verstehe ich.. Aber es gibt einfach einen großen Wortschatz, den ich noch nicht kenne, und ich kann die Sätze mit der richtigen Grammatik nicht gut bauen. Von meinem Mund kommt immer einfache Wörter. Das macht mir viele Stress.

ただ、こうして嘆いていても何が改善されるわけでもない。今この状況を前向きにとらえるとすれば、この悔しさが前に進むための大きな力となるだろうということだ。時折やってくるこの巨大な悔しさを、今回もまた噛み締めて、少しずつ高みに近づいて行きたい。毎度同じような悔しさ、それでも立ち止まらなければ僅かずつでも進んでいるのではないかと、そう信じて。

Jedoch (noch mal), nichts wird verbessern, wenn ich nur über den Stand klage. Wenn ich ihn positiv deuten kann, kann es so bedeuten: Das Reue wird mir die große Energie werden, damit ich vorwärts kommen kann. Das große Reue, das mir ab und zu kommt, sollte ich auch dies mal verdauen und wollte mich weiter der Höhe nähern. Das Reue fühle ich mich ganz oft, aber ich lasse mir fest daran glauben, dass ich troz sehr langsam bestimmt vorwärts kommen, wenn ich mindestens nicht stehen bleibe.


 


2015年8月21日金曜日

無題

ふむ、この気が抜けたような感覚に陥る、ということについて、とことん考えた方がいいと思うようになってきた。その日の仕事については朝起きた時の勢いと責任感からこなすことはできる。これは当然のこと。しかし、仕事が終わってふと休憩をすると、途端に心が殻になったような心持ちに襲われる。やりたいことはある、それが大切なことだってことも分かっている。でもそこに向かうだけの力が湧いてこない。

今休暇が終わってベルリンに戻って来た友人から電話があった。久しぶりに彼女と話していたら、それだけで元気が湧いてきた。そして彼女には、僕は毎年夏になると気力の落ち込みに悩まされていると言われた。確かにその通りなのだ。夏になり日が長くなって、明るい時間を持て余していることがマイナスに影響しているのか。去年の夏は予定が色々と入っていたから乗り越えられたものの、一昨年は今年とは比べ物にならないくらい酷かった。おかけで胃の調子をおかしくしてしまったのだ。

日が長くて通りに人が多くいる、街はざわついていて落ち着かない。その雰囲気に僕の心があてられてしまうのだろうか。一方、冬は夜が早く訪れるし寒さが厳しいので、街はひっそりと静まり返る。前回の冬は特にドイツ語の勉強がはかどった(上達したかは別として)。

ここまでの数週間は毎週ベルリンの郊外に出ては湖に入り浸っていた。自分のやるべき事はそっちのけで、そうなると本来は罪悪感に苛まれるのだが、暑い日差しの下、水に浸かり、森の中を歩いていると精神的にとても落ち着くのだ。罪悪感もなく、健康的な気分になる。これが自然の力というものなのだろうか。いずれにしても、夏の過ごし方については何かしら工夫しなくてはなるまい。夏は毎年やって来るのだから。

現状としては、幸い段々と日が短くなって来ているので、闇の中で僕の心も静けさを取り戻しつつある。

2015年8月19日水曜日

無題

折角書けるようになってきたかと思っていたのに、また挫折しそうになっている。それだけじゃない、全体的に気力が下がって来ている。それは最近の天気が原因なのだろうか。今週は曇りがちだし、何よりも真夏の暑さがなくなった。家にいても湖に行きたくなるような、そわそわした気分がなくなった。やりたいことはたくさんあるのに、そこから活力を引き出せない。またいつものパターンに陥ってしまうのだろうか。

この問題、回避する方法は分かっている。しかし出来れば正面から突破したいものだ。

ダメだ、今日はもう、今日ももう寝よう。

2015年8月18日火曜日

無題

ふと気を抜いていると、書くということから遠ざかってしまいそうになる。それだけ書くことは難しい。難しいというか、精神的に負荷がかかるものでもあるから、書き始めたら心が生き生きしてくるのだけど、それまでが大変なのだ。

だから今日もここに至るまでに多くの時間を費やしてしまった。プロレスとアニメの動画を見ている間に時間がどんどん過ぎてしまった。動画サイトってほんとに怖い。時間を潰せるものであふれているし、見ていると一定の満足感も得られてしまう。他にやることがないのであればそれでもいいのだろうが、僕にはやることがあるはずだ。なのに、ふとした気のゆるみ、それは食事中だったり仕事が終わった後の一時であったり、そういう時間に動画を見だすと止まらなくなる。これが映画だったりすると、2時間前後という長い時間を想像するので、見ようとまではならないが、10分〜20分の動画となると、気軽に見れてしまう、そしてそれを繰り返してしまって結局2時間が過ぎることもある。ほんとによくないと思う。

僕は高校ぐらいからテレビゲームでドラゴンクエストのような冒険物をやらなくなった。それは黙々とタスクをこなすだけで延々何十時間もゲームに付き合わされるのが嫌になったからで、代わりにスポーツゲームを好んでするようになった。それだと一試合15分〜30分で終わる。しかしここでもやっぱりそれを繰り返してしまい、結局冒険物をプレイするのと変わらないかそれ以上の時間をゲームに費やしていたと思う。

気軽さは危険だ。そこに中毒性が潜んでいると今度は気軽に抜け出せなくなる。まあ、動画サイトにしてもその内容は千差万別なのであって、実際に人を感動させるものだって沢山ある。でもそれによって心の状態が受け身になってしまい、こうして自ら表現したり、単純にやるべき事への意識が低下するのは非常にまずい。むしろその気軽さがこの書くということに感じられるようになったらいい。そしてそこに中毒性があるのも僕にとってはいいことだ。


まだまだ書くことにきちんと向き合えていない感じがする。なんとか言葉を繋いではいるが、できればこれをドイツ語と並行して書いていきたいし、もっと時間に余裕を持って書きたい。それでも何とか今日も書けた。

2015年8月17日月曜日

書くということ

さて、今日はゴッホとは全然別の事を書くことにしよう。

もう少し、あと少しで自分に書く力、といういうよりも書く習慣が備わるような、そんな感覚がある。書くと言っても上手な文章を急に綴れるようになるとか、そんなことではなく、ただ今こうして書いているような、取り留めのない話をその都度書けるようになりつつあるのではないか、と期待を込めて書いてる。

僕は絵を描くこともそうだが、文章を書くことにも潜在的に強い衝動があって、いつもそれを形にすることに苦労している。また、形に出来ずにストレスを抱えてしまうことも多い。絵については波がありながらも、もう10年以上付き合っているわけで、どうすればその衝動を自分の肉体に伝えることができるのかが、徐々に分かってきた。毎日絵を描いていなくても、描けなくなることはないということを確信している。

しかし、僕が最近よく考えるように、自分の衝動を言葉を通じて表現する、自分に表現させること、それがまだ自分の中でしっくりと来ていない。衝動を言葉にする、という表現もおかしい気がする。そもそも衝動とは、言葉にうまくできない強い内部的な精神的な動きのことであるから、それを言葉にするということは矛盾している。ただ僕がここで言いたいことは、表現したい衝動(これは突き詰めると自己の存在を証明しようとする衝動と言える)、その心の動きを捉えて言葉にしたいということだ。

現実の出来事に接して、自分が感じたこと、頭の中に浮かんだ考えなどをその都度言葉に表していく。単純にそれがしたいんだ。そうすることによって、自分の頭の中が整理されてスッキリするだけでなく、そこから自分についての多くの発見が得られる。

実は、僕は絵を描き始めた頃から旧ブログや自身のサイトにて「DIG」という項目を設けて言葉を表現していた。当時から僕の事を知っている人で、それを読んでいた人などほとんどいないと思うが、始めはそれこそ頻繁に言葉を書いていた。今から振り返ってみると、文体も違うし、書いている内容も、青臭い、それでも自分で言うのもなんだが、いい言葉を使っていると思える所も多い。

ただそこにあるのは、深い思考によって書かれたもの、というよりも、その場の瞬発的で感覚的な言葉の羅列。より詩に近いものだったと思う。あの時の自分にはそれ以上のものを持っていなかったのだから、それはそれでよかった。

しかし、絵を描くようになり、自分に対して、そして世界に対して目が開かれてからというもの、言葉を慎重に扱うようになったあまり、言葉を書けなくなっていったのを覚えている。そうだ、いつの頃からか、僕は書くということができなくなってしまった。

2015年8月11日火曜日

ゴッホ1


ここのところやっと、言葉を吐き出すことの、自分にとっての意味が分かってきて、吐き出させる環境も整ってきたように思うので、この勢いに乗ってゴッホを僕なりに消化して行こうと考えている。


6月の中旬から7月の頭にかけて、僕は南フランスのアルルという街に滞在してきた。そこは言うまでもなくヴィンセント・ヴァン・ゴッホが最も彼らしい作品を多く生み出したと言われる土地で、ゴーギャンとの短い共同生活、そしてまた発狂が始まった土地でもある。

※ゴッホは1888年2月〜翌89年の5月までアルルに滞在した。 ゴーギャンとの共同生活は88年10月後半〜12月後半のちょうど2ヶ月間、そしてゴーギャンがパリに戻る直前にゴッホは初めての発作(有名な耳切事件)を起こす。

僕が初めてゴッホの作品を見たのは上野の西洋美術館だったと思う。あれは自分がまだ大学生の時ではなかったか。大きくていくつもの部屋がある中で、ゴッホの作品は一枚だけ、しかも全集にも載っていない、彼の作品の中ではあまり知られてない作品なのではないだろうか。当時を回想してみると、僕はクロード・モネの、川の対岸の小さな町を夕日のサーモンピンクで染めた作品に心を焼かれていた。

それと対称的に、ゴッホの作品は部屋の片隅にひっそりと展示されており、ひと目見ただけだと彼の作品だと知らずに通りすぎてしまいそうだった。それでも僕がモネの作品の次に心に残っていたのはこの絵で、モネや同じ部屋に掛けられている同時代の他の画家による作品と全く異なる、何かこう、得も言われない独特の雰囲気を感じたのを覚えている。

こういう言い方もできる。モネの絵は綺麗だな、と思って、ああ、綺麗だ、と思って見ることが出来たし、当時の僕にはそれで十分だったが、ゴッホの絵からは何か簡単に綺麗と片付けられない、片付けてはいけない危険な感じがした。これは今でも同じく思うことだが、彼の絵には何か得体の知れないものが「詰まって」いるように感じるのだ。ふっと絵の前で足を止めて、誰の絵なのかと名前を見て、そこでそれがあのヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品だと初めて分かった。




これは全くの序章に過ぎず、ゴッホと真に出会い、向き合うことになるまで、そこから十数年の時を待たねばならなかった。




クロード・モネ「ヴェトゥイユ/1902年」(西洋美術館蔵)
http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0157.html

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ばら/1889年」(西洋美術館蔵)
http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0193.html


2015年8月10日月曜日

無題

よし、久しぶりに記事を書こう。

最近は本当に「ものを書く」ということが出来なくてイライラしている。

それは忙しくて時間がないから、とかではなく、気力の問題なのだと思う。

日々感じることが沢山あって、頭の中では言葉が渦を巻いているのに、いざそれを形にしようとする段になるとキーボードを叩いたりペンを動かしたりすることができなくなる。僕はいつもこのギャップ、気持ちと行動の隔たりに苦しむわけだ。

原因を考えてみるが、これといったものが見つからない。単に本気でやりたいと思っていないだけかとも思うが、そうしたら絵を描くことだって展示をするという期限を設定することで集中できるようになるという今の状況を考えると、これまた怪しくなる。

そうして何なんだと考えれば考えるほどに、また気力が失われていくのだ。

こんな僕を傍から見たら、僕は病んでいるようだろう。果たして僕は病んでいるのかも知れない。
その辺りは正直よく分からない。実際には、絵による表現を自分である程度(意識して展示をするということで)制御できるようになるまで試行錯誤を繰り返したように、両翼のもう片方の翼である言葉、この言葉をより精力的に吐き出させるためにも、今はこうして病むほどに苦しみながら、その方法を見つける過程にあるのかも知れないし、そうであったら僕は嬉しい。


こうして誰に向かっている訳でもない言葉の羅列をするのも、今ではほぼ誰も訪れなくなったこのブログでは都合がいい。これは一種のリハビリテーションなのかも知れない。

僕は何を語っているでもない、ただ自分の心の動きを観察し、それを言葉にしようと試みているに過ぎない。美しい風景に触れて何とも言えない気持ちになった時の、その感情、 その感情を言葉にしたい。道を歩いていてふと頭に浮かんだ言葉、その言葉を忠実に書き出したい。

実際にこうして言葉を絞り出している今この時の気持ちは充実している。自分の内側から出てくる何ものか、その何ものかを外側に出す作業は僕に満たされた感覚をもたらす。


さて、ここ最近はずっとゴッホにかかりきりなわけだが、ゴッホに触れた時の自分の気持ちをひたすら言葉に表す作業をしたい。今こうして書いていて感じたこと、こうして言葉の羅列をしているだけでも十分なのじゃないか。変にかしこまって、ある形式にのっとってまとめようと思うとうまく行かなくなるのはこれまでの経験で分かっていることだ。それでも、ある程度はまとめる力も必要だと思うから、少しは抵抗、いや挑戦してみようとは思うが、まとめることを意識しすぎて言葉が出て来なくなった、そう考えられはしないだろうか。

いずれにしても、書きながら今後の手がかりを掴んだような気がする。絵の制作と同じで、まず何でもいいから書き出し始める。そしてそこから見えてくるものがあって、それを展開させていくというやり方だ。



よし、

久しぶりになんとか記事が書けた。


※目標はこういう思いの丈をドイツ語でも書けるようになることだ。もっともっとドイツ語の水準を上げなければならない。これは人に他の言語も使えてすごいと思われようと思っているからではなく、まずもって怠け者の自分に強く言い聞かせるために書くものである。