書くということ

さて、今日はゴッホとは全然別の事を書くことにしよう。

もう少し、あと少しで自分に書く力、といういうよりも書く習慣が備わるような、そんな感覚がある。書くと言っても上手な文章を急に綴れるようになるとか、そんなことではなく、ただ今こうして書いているような、取り留めのない話をその都度書けるようになりつつあるのではないか、と期待を込めて書いてる。

僕は絵を描くこともそうだが、文章を書くことにも潜在的に強い衝動があって、いつもそれを形にすることに苦労している。また、形に出来ずにストレスを抱えてしまうことも多い。絵については波がありながらも、もう10年以上付き合っているわけで、どうすればその衝動を自分の肉体に伝えることができるのかが、徐々に分かってきた。毎日絵を描いていなくても、描けなくなることはないということを確信している。

しかし、僕が最近よく考えるように、自分の衝動を言葉を通じて表現する、自分に表現させること、それがまだ自分の中でしっくりと来ていない。衝動を言葉にする、という表現もおかしい気がする。そもそも衝動とは、言葉にうまくできない強い内部的な精神的な動きのことであるから、それを言葉にするということは矛盾している。ただ僕がここで言いたいことは、表現したい衝動(これは突き詰めると自己の存在を証明しようとする衝動と言える)、その心の動きを捉えて言葉にしたいということだ。

現実の出来事に接して、自分が感じたこと、頭の中に浮かんだ考えなどをその都度言葉に表していく。単純にそれがしたいんだ。そうすることによって、自分の頭の中が整理されてスッキリするだけでなく、そこから自分についての多くの発見が得られる。

実は、僕は絵を描き始めた頃から旧ブログや自身のサイトにて「DIG」という項目を設けて言葉を表現していた。当時から僕の事を知っている人で、それを読んでいた人などほとんどいないと思うが、始めはそれこそ頻繁に言葉を書いていた。今から振り返ってみると、文体も違うし、書いている内容も、青臭い、それでも自分で言うのもなんだが、いい言葉を使っていると思える所も多い。

ただそこにあるのは、深い思考によって書かれたもの、というよりも、その場の瞬発的で感覚的な言葉の羅列。より詩に近いものだったと思う。あの時の自分にはそれ以上のものを持っていなかったのだから、それはそれでよかった。

しかし、絵を描くようになり、自分に対して、そして世界に対して目が開かれてからというもの、言葉を慎重に扱うようになったあまり、言葉を書けなくなっていったのを覚えている。そうだ、いつの頃からか、僕は書くということができなくなってしまった。

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