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11月, 2015の投稿を表示しています

ヌードデッサン

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デッサン教室が終わって、今度はヌードデッサンを描きに行くようになった。 デッサン教室が思いのほか充実していたこと、また、人体も描いてみたいと思うようになり、探していたところ、都合よく家の近所で毎週ヌードデッサンを開催している所を見つけた。 今回は教えてくれる講師はおらず、単純にモデル(隔週で男女のモデル)がポーズをとり、それを参加者が好きなように描くという形式。最初は5分おき、そして10分、15分、30分という形でポーズを変えていく。 参加者の数はその時によりまちまちで、予約の必要がないので気軽に参加できる。 やはり場の雰囲気は大事だなと思うのだが、描いている間は形を捉えるのに必死なので、自分でも驚くほどあっという間に時間が過ぎていく。ものすごく集中できる。 やってみて、感じること、考えることがいくつか出てきた。 まず描き方を教えてくれる人がいないこと。これには最初戸惑った。どう描き始めたらいいのか分からない。それでもやらなければならない。一枚目、二枚目は酷いものだ。上手く描こうとするものだから、自分の味も出せない。 これはまずい、このままでは何も得られないと焦る。 最初は鉛筆だったが、得意なペンに持ち変えて描いてみる。上手い下手を意識しないで描く。今度は自分らしさが出てきた。 次に木炭で描いてみる。これもまた悪くないと思う。 最後、不意にボールペンと木炭の合わせ技で試してみる。新しいものが出てきた。 これまでが一回目の流れ。 そして二週間程空いて、再びヌードデッサンに行ってみる。 前回得られた感覚がすっかり失くなっている。 スケッチブックを新しくしたのも感覚の違いに大きく影響しているのだろう。紙質が異なるので、ペンや木炭での描き心地が全く違うのだ。 この紙質に慣れるまで、もう少し時間が必要なのかもしれないが、他の画材によるデッサンが不満足の連続だったため、今一度鉛筆に戻る。 試行錯誤を繰り返しながら、なんとか全体像を捉えることができるようになってくる。 上の二枚はそれぞれ30分かけて描いたものだが、ごく一般的なヌードデッサンが出来上がったと言えるだろう。 自分なりに上手に描けたと思っているし、形を捉え、それを少しずつハッキリさせていく作業には充実感すら伴う。 ただ、頭の中は整

晩秋

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一昨日撮った写真。 気温もぐっと下がったし、もう秋も終わりだなと思っていたら、昨日は初雪だった。 いよいよ 冬が来ました。

富と名声

富や名声・名誉など僕には関係ない等と思いながら、実際には気になるところがある。また、そういう意味で成功を収める人には時折嫉妬してしまう自分がいるので、この際だから、その辺りを洗い出してみようと思う。 1.富はどのくらい手にしたいと思っているか。 上を見ればキリがないけれど、まずは絵、そしてできれば言葉も生業として生活が維持できるようになることが望ましい。そして適度に旅行ができ、年に一度もしくは二度は日本に帰ることができ、願わくば家族を持った時に彼らを養えるだけの収入。そしてさらに願わくば、大事な人を少しだけ助けてあげられるだけの収入。 別に世のため人のためにお金が必要などとキレイ事を言うつもりはない。でも僕はありがたいことに十分自分のやりたい事をやれているし、その分、本来は親を少しでも楽させてあげるだけの収入を得ていてもおかしくない年頃なのだが、そうはなっていないことへの罪悪感もある。だから、もっとお金があれば親に生の充実を味わってもらうための何か(基本は旅行だと思う)をしてあげたいという気持ちが大きい。 特別大金持ちになりたいという訳ではない。むしろ「富や名声」という場合の「富」という言葉が否定的な印象を持っていて、それを望むことが浅ましいことのように感じるが、そこまで卑屈にならなくてもいいのかもしれない。 それは貧困で苦しんでいる多くの人の前では贅沢な望みかもしれないが、現在の僕の状況を客観視した時に、欲に溺れているという水準のものには全く見えない。その点を僕はもっと素直に受け入れてもいいのではないか。 2.名声はどれだけ欲しいか? 名声というと、世間で高い評価を受ける、有名になるということを指すが、僕にはそういう願望はほとんどない。 これ自体は嘘ではないのだけれど、ただ、何かで功績を上げて有名になる人を羨ましいと思うことがあり、その度に自分の器の小ささを感ずるのも事実。 小さな頃は目立ちたがり屋だったし、人に注目されること自体は嫌ではない。画家として有名になるにはどうしたらいいかと本気で考えた時期もある。でも純粋に自己を磨くこと、高みに登ることを生きる指針とした時から、有名になるために活動することへの動機が無くなった。有名になって名誉欲を満たすことが僕の生きがいではないからだ。僕にはそれよりも、もっともっと大事なものがある。

デッサン教室 その六

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第六回目 本当はこの次にもう一回あったのだが、先に書いた通り、体調が悪過ぎて何も集中できず、得られるものがほとんど無いと言っていいので省略する。そこでは遠近法について練習をしたが、頭も働かないし、痛かった思い出しか残っていない。残念なことだが今回は縁が無かったのだろうと諦める。 ということでこれが実質的な最終回。今回は人物画。本来はヌードデッサンの予定だったのだけれど、モデルが急遽キャンセルになったため、代わりに講師がモデルになってデッサンをすることに。 人に習うのは初めてなものの、これまでにも人物を描くことが無かったわけではない。それでも描き方の基本というか、コツを教えてもらうのは、それはそれで新鮮なものだ。 今回は時間が限られていたため、顔に限定して教えてもらった。 新たな発見だったのが、頭頂から顎までを見た時の中間が目だということ。人の顔を描く時、これまでは髪の生え際をてっぺんとして、顎までの部分を「顔」として認識していたが、ここでは頭髪も含めた「頭」まででひとつとして見ているのだ。 そしてその中心に位置するのが目であり、中心が決まるとそこからはまた対象を二次元に落とし込んで行くことで、現実に近づけることができるという考えのようだ。 最初の習作(上)は距離感を測るのに精一杯で、それだけで時間が終わってしまった。細かな部分まで描いている余裕はなく、モデルが若々しくなってしまった。 二枚目は一枚目と同じ所用時間だったにも関わらず、大きな進歩を見せていると思う。きちんと歳相応に描けている。 静物を描いている時もそうだったが、デッサンはある程度形ができてくると、そこからが楽しい。形を再現する、というか大まかに決めるまでが難しく、決まった後は彫刻で言うところの磨く作業に近いので、無心でひたすら鉛筆を動かすことができる。   最後は5分おきに姿勢を変えてもらって、素早く描くという練習。忠実に描こうとすると、時間が全く足りないので、細かいことは気にせず大まかに描く。この中では真ん中の習作がすごく気に入っている。ちなみに右下は木炭で描いたもの。木炭で描くには紙面が狭すぎで、僕の場合、木炭は小さく描くのには向かないことが分かる。小さいものを描くにはペンがいいのだろう。

デッサン教室 その五

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第五回目 今回の題材は流木。 この教室も今回を含めてあと三回、そして次回は人物画、最終回は遠近法ということで、静物画は今日で最後となることもあり、自分の得意な木炭で描くことにした。 流木はその形が既に魅力的で、想像力を働かせることでいかようにも見ることができる。僕はこの流木を鳥に見立てて構図を決めた。 木炭は僕の線を表すための非常に重要な画材だ。 僕の絵は混沌とした色を背にし、時に太くて強い、また時には細くて弱い線が縦横無尽に駆け回る、というのが基本になっているのだが、その線を描くのに、最初 はバスキアの真似で油絵の具を固めたオイルスティックを使っていた。それがアクリルの黒で描く時期を経て、今ではほぼ木炭を使用している。 今思い起こしてみると、その理由として考えられるのは、他の画材に比べて、色の濃淡を自由に調整できるからなのだと思う。木炭との出会いによって、自分のいいと思うまで、線の調子を整えることができるようになった。 本来、木炭はデッサンや下絵に主に使用されるのだが、僕は全く違う、自分の文脈の中でそれに出会った。それが今こうして本来の使われ方をする。 一枚目に並んで、こちらもこれまででベストと感じられる習作(野菜か果物の乾物)。 うまく言葉で表現するのは難しいが、僕の内側の成分がジワジワとにじみ出ていて、自分で見ていて飽きない。まさに、グッと来る、というやつだ。 普段は自分の好きな画材しか使っていないから気が付かないが、色々と他の画材を試すことで、その自分に合った画材、もしくは得意分野が浮き彫りになる。僕だって一応、油絵の具やインクや水彩画なんかも試しで使ったことはある。14年間絵を描いてきて、画材も自然と定まって来たのだろう。 ちょっといつもと違うものを見ることで、いつも見ているものが当たり前なんかじゃなく、自分で選んだ結果なのだと分かるのだ。 それが今後も変わらない保証なんてどこにも無いが、自分の立っている場所を再確認、それも強く、ハッキリと自覚することができた。

デッサン教室 その四

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第四回目 さて、四回目。 今回は盆栽、描く対象も段々と複雑になってきている。こうなると空間把握が難しくて、鉛筆を使って距離を測ったり、枝の斜め具合いを確認したりに時間がかかる。時間がかかると今度は絵を先に進めたくなる衝動に駆られる。 葉っぱの数は忠実に再現したが、根っこの数や葉っぱの形はいい加減になってしまった。でもこの習作を見て分かるように、そういう細かい部分は意外とどうでもよくて、作品が良く見えればそれでいい、ということも言えるはずなんだ。 今回のデッサン教室では、僕は敢えて基本を学ぶことに集中し、自分の色というよりも、対象を忠実に再現することを考えていた。それは自分の色はいつでも出せるからで、普段ならやらないことをここにやりに来たんだ。 だから、細部まできちんと描き込むことができないことについては、満足していないが、それでもやはり再現性、どれだけコピーしているかと、その作品の良し悪 しはイコールではないと思うのだ(全く違うとも言い切れない部分もあるだろうが)。これは言うまでもなく、僕の絵のスタイルからして当たり前のことなのだが、その当たり前のことを、実際に自分で経験してみる、ということが大事なのだと思う。 二枚目は、前回に引き続き竹ペンを使う。小さな対象を大きく描くという練習。 ゴッホの陰影を参考に描いてみたが、影を線で表現することが今ひとつ出来ていない。自分の中ではこの練習を続けるべきか、よく分かっていない。もう少し時間が必要で、そのための時間を自分が作ろうとするか、今はなんとも言えない。

Um lebendig zu leben

Kann ich wirklich sagen, dass ich ehrlich, aufrichtig sowie redlich lebe, ohne Reue zu empfinden. Verliere ich mich nicht selbst? Stehe ich immer noch dem Tod gegenüber? Vergesse ich wirklich nicht die Leute, die an mich denken und mich unterstützen? Halte ich nicht dort an, wenn ich mit meinem heutigen Zustand zufrieden bin? Ich, Suche ich immer noch die Wahrheit? Ich, Bei mir, Höre ich den Schrei meiner Seele? Ich, Ich möchte mehr, mehr, mehr, mehr lebendig leben. Obwohl ich in einer von der so großen und drastischesten Stadt lebe, ist meiner Aktionskreis sehr eng, als ob ich in einem kleinen Dorf lebte. Nach wie vor ist mein Bewusstsein niedrig, meine Bilder zu verkaufen oder zu bewerben, und ich interessiere mich kaum für die Kunstszene Berlins. Jedoch, deswegen, da ich diesen Alltag habe, kann ich mich auf mein Ding gut konzentrieren, ohne Fessel zu fühlen, und in der Tat sammelt sich etwa eigenen Erfahrungen an. Allerdings, wenn ich m

生きるため、活きるため

僕は僕に対して恥ずかしくない生き方をしていると、胸を張って言えるのか。 僕は自分を見失っていないか。 僕は今でも死と向き合っているか。 僕は僕を支えてくれている人達のことを忘れていないか。 僕は今の自分に満足して、そこで立ち止まってはいやしないか。 僕は、 僕は真実を希求しているか。 僕は、 僕には、 僕の魂の叫びが聞こえているか。 僕は、 僕はもっともっと、 もっともっと、活きて生きたい。 ベルリンという、今最もドラスティックな都市の一つである街に暮らしながら、僕の行動範囲は極端に狭く、まるで小さな村で生活しているようだ。 相変わらず、自分の作品を売り込もうとする意識は低く、ベルリンのアートシーンにもほとんど興味がない。 でも、そんな日常があるからこそ、僕は自分のやりたいことを、何のしがらみのなく自由にやれるし、 実際に何かしらの経験は蓄積されている。 ただし、全力で上記のことをやれているかというと、やれている時とそうでない時がある。 今一度、ネジを締め直して、 僕の、 魂の咆哮に耳を傾けよう。 生きるため、活きるために、 死というものを 意識しよう。

デッサン教室 その三

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第三回目 この日は遅刻をしてしまったため、なかなか集中して作業することができなかった。 今回の課題はSchraffur、陰影についてだった。対象には野菜や果物が加わった。普段は家でデッサンをやろうという気持ちにならないが、こういう場に来ると、環境がそうさせるのだろう、ものすごく集中できる。時間があっという間に過ぎていって、つまらないと思うどころか、とても充実している。 そういう意味でも、やはり環境を整えることは、僕にとって非常に大事だ。 もっと時間があれば静物もしっかりと描き込みたいところだったが、まずは影を描くことに注力した。 左の野菜に比べて、右側の水差しでは線の強弱を意識してみた。影を描いている時もそうだが、形を描いて、そこから少しずつ少しずつ陰影をつけていく作業は気持ちがいい。彫刻を本格的にやったことがないので、予想も含めてだが、粗く掘った形を少しずつ磨いていく作業に似ているのだろう。そこには、形を作る際の創造性とは別の、職人的作業がある。 これは恒例になっている、色々試してみようの時間で描いた習作。今回は竹ペンを使ってみた。竹ペンはゴッホがよく使用した画材の一つで、こういう新しい画材に触れることができるのも、環境によるところが大きい。 インクを使う、ということは、描き直しができない。勢いで一筆で形を描いてみる。失敗が許されない時の緊張感。でも竹じゃないにしても、ペンは僕がいつも使う道具なので、自分を出しやすい画材だという感覚を得た。

デッサン教室 その二

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第二回目 デッサン教室二回目。これは僕のお気に入りの習作のひとつだ。今回は前回習った形の把握の仕方以外に、色の濃淡を意識しよう、とのことだった。一回目の習作と 比べて、大きな進歩が見られる。これには自分自身でも驚いたのだが、やはりデッサンにもコツのようなものがあって、描きながらそれを少し掴んだのだと思 う。それと、瓶の色や影に木炭を使ったことで作品に新たな表情を加えたということも言えるだろう。 僕は普段デッサンはしないが、絵を描くのに木炭を多用するので、木炭の良さを自分なりに知っている。急に上達したように見えるのも、木炭での経験がここで生きているからなのだろう。 今日も二枚目は静物から一旦離れ、有名な画家の画集を参考にしながら、線と画材の使い方を教わる。ここでも木炭を使い出すと気分が乗ってくる自分がいた。 そして三枚目、時間があまり残されていなかったので、鉛筆で丁寧に描くのを諦め、木炭で一気に描いてみた。対象を忠実に再現はしていないが、なんとも自分らしい、味のある習作ができたと思う。

デッサン教室 その一

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ゴッホや小林秀雄の話が一向に進まない中で、また新しいことを始めたので、忘れないうちに書いておこう。 思うところがあって、9月、10月とベルリン市が提供している、市民向けのデッサン教室に通ってみた。ドイツではフォルクスホッホシューレ(Volkshochschule、辞書の訳語では「市民大学」。以下VHS)というシステムがあり、そこでは一般市民向けに色々な講座が開かれている。仕組みとしては、まず講座を開きたい講師がいて、VHSに登録をする。それを見て受けたい人が一定数集まると、講座が開催される、ということのようだ。 今回僕はデッサンを習いたかったので、VHSのウェブサイトで初心者向けの講座を探し、試しに受講してみた。 毎週月曜日の18時から21時の全7回。最後の回は体調が悪く、作業に全く集中出来なかったため、載せる作品がないのだが、それ以外のデッサンをここで順次掲載していこうと思う。 第一回目   今回のデッサン教室は、中年の女性画家によって開かれたもので、受講者は僕を含めて5〜6人。少ない分、一人一人をきちんと見てくれるのでよかった。前述した通り、僕が受講したのは初心者向けのものだったので、僕以外絵描きは一人もいなかった。僕自身、これまでデッサンについて、基礎的な何かを学んだ経験はない。 デッサンする対象は主に静物。上の絵が最初に描いたものになるが、手が思い通りに動かない感じがよく表れていると思う。これでも一生懸命描いたのです。 これはデッサンではない。二枚目は静物から一旦離れて、幾何学模様を適当に描いて、それを線で繋いでみなさい、ということだった。最初は鉛筆だけだったが、講師から木炭や墨汁を渡されて、自由に描いていいということだったので、色々な画材を試させるためのものだったのだろう。 一枚目の不自由な感覚に苦しんだ後だったので、僕は水を得た魚のように、好き勝手に描いた。何もない所から描いていく、やはりこういうやり方が自分には合っている、と改めて感じた。 そして三枚目は再び静物を描く。ここでは対象の高さ、太さ、距離感などを、鉛筆を使ってどうやって把握するかを教わった。そこで分かったのは、対象を3次元でなく、2次元で見ようとする視点が必要になる、ということだ。考えてみれば当たり前なのだが、絵は2次元なのだから、3次元の

Open Atelier / オープンアトリエ

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Hallo ihr lieben, seit einer Woche sind meine alten Bilder an die Wand meiner Wohnung gehängt. Wenn jemand Lust hätte, komm einfach vorbei sie zu schauen. Sie hängen mindestens noch eine Woche. Sag mir bitte einfach Bescheid. 先週より自宅の壁に過去の作品を展示しています。少なくともあと一週間はこのままにしているので、もしご興味がある方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。

ハルツの紅葉を求めて

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ここのところの天気があまりにも良かったのと、今年の秋は特に紅葉が美しく感じたので、先週の土日はベルリンから南西に200kmほど離れたところに位置する、ザクセン・アンハルト地方を訪れた。ここにはハルツという、標高はそれ程でもないが、小高い山々と広い森がある。 今年の2月に旅したヴェルニゲローデという街も、このハルツの有名な街の一つだったが、今回はクヴェルトリンブルクとターレという小さな街を訪ねた。 クヴェルトリンブルクの中央広場 やはりここでもヴェルニゲローデと同様、木組みの家が特徴的だ。 旧市街の外れに位置する城 城の近く、小高い丘の上に建つ住宅 その丘の奥に入って行くと細い小道が現れ、さらに進んで行くと緑と黄色の絨毯が。 初日はクヴェルトリンブルクの街並みを観光し、二日目はターレへ。行ってみて分かったのだが、クヴェルトリンブルクはまだハルツから少し離れたところに位置しており、ターレがまさにハルツの玄関口の一つとなっていた。 山の上にはリフトでも登れる。リフト自体、恐らく20年振りくらいに乗ったのではないか。 リフトの上から見た景色。 魔女の家。ハルツは魔女伝説で有名な場所でもある。 ここはドイツのグランドキャニオンと呼ばれているそうです。(地球の歩き方調べ) こちらの紅葉は日本と比べて鮮やかな赤が少ないように思う。時期の問題なのか分からないが、針葉樹でもないのにまだ黄緑色の葉っぱもあるし、基本は緑〜黄色〜茶色で鮮やかなのは黄色の一部。これはこれで美しいのだけど、やはり日本の紅葉を見ている時の方が感動が大きいように思う。